インドの女性問題について少しメモ

http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2856993/8439008
種々雑多な問題が複雑に織り込まれている記事を読みました。関連して少しメモをしておきたいと思います。

まずは心得的メモをしておきたいと思います。

今日、日本のメディアで取り上げられるサティー寡婦殉死)、持参金(ダウリ)殺人その他、南アジアの女性の「抑圧」を印象づけるさまざまな事象は、南アジア全土のあらゆる階層でみられ、はるか過去から変わることなく綿々と続いてきた「伝統」では決してない。個々の現象は歴史的に形を変化させ、特にその多くが十八世紀なかばに始まるイギリス植民地支配の時期を通じて、植民地支配という社会経済的な状況のもとで、独特の意味づけを与えられ変容を遂げてきた。また、そうした状況に、南アジアの女性たちはなすすべもなく、受動的な「犠牲者」となってきたわけでもない。
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南アジアにおけるジェンダー規制、あるいは南アジアの女性というとき、まず、そうした一般化をほとんど不可能とするほどの多様性が存在するという事実を頭に叩き込む必要がある。地域、コミュニティ、階層、そして極端な場合には特定の家族ごとに慣習が異なり、歴史的にもそれらの慣習は変化を遂げてきた。
 ヒンドゥーに関してみるならば、一般にカーストが高いとされるほど、女性の行動規範は厳格であるとはいえよう。たとえば、寡婦の再婚禁止や、サティー、パルダー制度などは、もっぱら上位カーストが従ってきた慣習だった。パルダー制度とは、女部屋(ザナーナー)やヴェールを通じて限られた親族以外の男性の目から女性を隔離する慣習であり、ムスリムのみならず、上層のヒンドゥーのあいだでも十九世紀には東インド北インドで広く見られた。
【中略】
下位カースト集団は、しばしばこうした上位カーストの女性の行動規範を模倣することによって、社会的なステイタスを上昇させようとした。
【中略】
今日深刻化している花嫁側から花婿側に多額の持参金が支払われる慣習も、すべてのコミュニティにみられたわけではない。
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関連して少しメモをしておきたいと思います。

最後に触れておくべきなのは、ナショナリズム思想の一要素として、あるいはインド女性が抑圧されているという攻撃に対する反論として盛んに主張された「インド古代の黄金時代」という虚構、レトリックである。それによれば、古代にはサティー寡婦の再婚禁止、幼児婚といった慣習は存在せず、女子も男子同様の教育機会に恵まれていたとする。この主張は、批判されるべき諸慣習がイスラームの支配期に生まれたという、これまた虚構と抱き合わされていた。
【中略】
ナショナリズムに共感し、同時に女性の権利要求と地位の向上を求めた(ヒンドゥー)女性たちの多くも、自分たちの要求を正当化するにあたって、この女性にとっての「黄金時代」というレトリックを大いに駆使したのだった。「黄金時代」のレトリックが、肉体労働にたずさわり、教育とは無関係の世界に生きてきた圧倒的多数の女性の存在を度外視している点で、きわめて上位カースト的な性格なものであったことは、あらためて指摘する必要もない。
*3

上の引用は19世紀末葉から20世紀前半までのナショナリズムジェンダーを議論した節の末尾よりメモしました。

別のはやっている見方は、それ(サティー)は「イスラム教徒の侵略」のために余儀なくされた
【中略】
との十九世紀にプロパガンダされた見方だ。(その前のも別のも)どっちの見方も歴史的なエヴィデンスに支えられていない。
*4

上の引用ははインドのオックスフォード大学出版の出した寡婦殉死アンソロジーよりメモしました。

 サティーの禁止をめぐる論争に特徴的なのは、植民地政府にしろ、現地のサティー支持派や反対派にしろ、紀元前から綿々と、もっぱらバラモンによってサンスクリットで書かれ、解釈・再解釈を重ねられてきた文献に依拠して、自らの主張の正当化を図った点である。このように、サティー論争の過程で確立した、一見したところ女性の命、権利、地位改善といった問題を論じながら、実際にはヒンドゥー社会のあるべき姿、「伝統」をめぐって議論が戦わされるというパターンは、以降たびたび繰り返されることになるのである。
【中略】
女性自身の声が聞こえてくることもなく、しかも、論者たちの理想とするヒンドゥー社会がきわだってバラモン的な価値観に偏っていたことは看過された。
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上の引用は19世紀前半のサティー禁止論争を議論した節よりメモしました。

 女児殺しは、科学技術の進歩によって、非常に陰湿な形で実行されるようになった。上位婚を好む北インドの諸地域では、このところ、女児の出生率が以前にも増して低くなっている。一九八〇年代に超音波診断が普及しはじめ、胎児の性別判定が可能となったので、女児と判明すると中絶する例が急増したからである。一九九四年には胎児の性別判定は違法となった。しかし、高い謝礼を支払ってでも性別判定を求める人々、金に目がくらんで法を犯す医者は後を絶たない。女児が成長して結婚するときに支払うダウリーのことを考えれば、非合法な性別判定の方が安くつくのである。
*6

上の引用は現代インドの入門書よりメモしました。

 ダウリーの金額は、一九六〇年代までは、一〇〇ルピーもかからなかったらしい。贈り物も雌牛をおくる程度だった。一九七〇年代半ば頃に五〇〇ルピー、一九八〇年代では、一,〇〇〇ルピーから高くても三,〇〇〇ルピー程度であったが、一九九〇年代半ばには一万ルピーに高騰した。二〇〇〇年代に入ると、一万ルピーから、多い場合には五万ルピーに及ぶ場合もみられるようになった
【中略】
贈り物も八〇年代には、雌牛の他には、腕時計、ラジオ、自転車程度だったが、九〇年代には、セイコーの時計、白黒テレビが必需品となり、ときにはバイクも贈られるようになった。
【中略】
二〇〇〇年代に入ると、大きなベッドや鏡台など持参財は大型化し、また、扇風機、圧力釜などの贅沢品に変わってきた。
【中略】
 結婚式の主要な儀礼の部分にあたるビヤーフは、花嫁の家でおこなわれるため、その費用も花嫁の家が負担する。その金額も半端なものではない。
【中略】
かつては、娘が三人いると家がつぶれると言われた。今は、ダウリーはいらないという家族もなかにはいるが、結婚に関わる費用は高騰化する一方である。
*7

 携帯電話は、花嫁と花婿の出会いの状況までも変えている。
【中略】
以前は、親戚が家族の評判をききあわせたり、探ったりすることがあった。今は、本人が直接、相手のところへ出かけたり、従兄弟たちが携帯電話で堂々と撮影するようになった。そのため、どちらかが気にいらないと破談になることもある。両親や親戚が決め、結婚式になるまで相手がまったくわからず、結婚してから恋愛が始まるとさえ言われた時代から、相手を選ぶこともできる時代へと大きく時代は変化している。
*8

上の引用はラージャスターンでないですが北インドのある村のフィールド・ワーク報告よりメモしました。

最後にまた心得的メモです。

【前略】
しばしばフェミニズム運動は西欧起源の胡散臭い代物、フェミニストはインドの「伝統」から遊離した西欧かぶれの少数派であるといったレッテル張りが容易となる。「伝統」を全面否定するのでもなく、上位カーストヒンドゥーの規範を基礎とした「伝統」を相対化し、ジェンダー抑圧的ではない新たな「伝統」を模索するという困難な作業に、今日の南アジアのフェミニズムは取り組んでいるといえるかもしれない。
 南アジアにおけるジェンダーをめぐるさまざまな問題は、古来からの連続としてではなく、十八世紀後半以降の政治・社会的な条件のもとで形成され、そしてより重要なのは、対抗されてきた問題であることをはっきりと認識する必要があろう。
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*1:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、159ページ。

*2:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、160-161ページ。

*3:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、175ページ。

*4:Romila Thapar, ''In History'', in Andrea Major, ed. Sati, New Delhi, 2007. pp.452-453.

*5:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、166ページ。

*6:井上貴子「伝統と近代の狭間で苦悩する女性たち―現代インドの女性問題」広瀬崇子、近藤正則、井上恭子、南埜猛編『現代インドを知るための60章』明石書店、2007年10月、212ページ。

*7:八木祐子「北インドの結婚式の変化―チャイからコーラへ」鈴木正崇編『南アジアの文化と社会を読み解く』慶應義塾大学東アジア研究所、2011年11月、91ページ。

*8:八木祐子「北インドの結婚式の変化―チャイからコーラへ」鈴木正崇編『南アジアの文化と社会を読み解く』慶應義塾大学東アジア研究所、2011年11月、103ページ。

*9:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、182ページ。