インドの女性問題について少しメモ

http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2856993/8439008
種々雑多な問題が複雑に織り込まれている記事を読みました。関連して少しメモをしておきたいと思います。

まずは心得的メモをしておきたいと思います。

今日、日本のメディアで取り上げられるサティー寡婦殉死)、持参金(ダウリ)殺人その他、南アジアの女性の「抑圧」を印象づけるさまざまな事象は、南アジア全土のあらゆる階層でみられ、はるか過去から変わることなく綿々と続いてきた「伝統」では決してない。個々の現象は歴史的に形を変化させ、特にその多くが十八世紀なかばに始まるイギリス植民地支配の時期を通じて、植民地支配という社会経済的な状況のもとで、独特の意味づけを与えられ変容を遂げてきた。また、そうした状況に、南アジアの女性たちはなすすべもなく、受動的な「犠牲者」となってきたわけでもない。
*1

南アジアにおけるジェンダー規制、あるいは南アジアの女性というとき、まず、そうした一般化をほとんど不可能とするほどの多様性が存在するという事実を頭に叩き込む必要がある。地域、コミュニティ、階層、そして極端な場合には特定の家族ごとに慣習が異なり、歴史的にもそれらの慣習は変化を遂げてきた。
 ヒンドゥーに関してみるならば、一般にカーストが高いとされるほど、女性の行動規範は厳格であるとはいえよう。たとえば、寡婦の再婚禁止や、サティー、パルダー制度などは、もっぱら上位カーストが従ってきた慣習だった。パルダー制度とは、女部屋(ザナーナー)やヴェールを通じて限られた親族以外の男性の目から女性を隔離する慣習であり、ムスリムのみならず、上層のヒンドゥーのあいだでも十九世紀には東インド北インドで広く見られた。
【中略】
下位カースト集団は、しばしばこうした上位カーストの女性の行動規範を模倣することによって、社会的なステイタスを上昇させようとした。
【中略】
今日深刻化している花嫁側から花婿側に多額の持参金が支払われる慣習も、すべてのコミュニティにみられたわけではない。
*2

関連して少しメモをしておきたいと思います。

最後に触れておくべきなのは、ナショナリズム思想の一要素として、あるいはインド女性が抑圧されているという攻撃に対する反論として盛んに主張された「インド古代の黄金時代」という虚構、レトリックである。それによれば、古代にはサティー寡婦の再婚禁止、幼児婚といった慣習は存在せず、女子も男子同様の教育機会に恵まれていたとする。この主張は、批判されるべき諸慣習がイスラームの支配期に生まれたという、これまた虚構と抱き合わされていた。
【中略】
ナショナリズムに共感し、同時に女性の権利要求と地位の向上を求めた(ヒンドゥー)女性たちの多くも、自分たちの要求を正当化するにあたって、この女性にとっての「黄金時代」というレトリックを大いに駆使したのだった。「黄金時代」のレトリックが、肉体労働にたずさわり、教育とは無関係の世界に生きてきた圧倒的多数の女性の存在を度外視している点で、きわめて上位カースト的な性格なものであったことは、あらためて指摘する必要もない。
*3

上の引用は19世紀末葉から20世紀前半までのナショナリズムジェンダーを議論した節の末尾よりメモしました。

別のはやっている見方は、それ(サティー)は「イスラム教徒の侵略」のために余儀なくされた
【中略】
との十九世紀にプロパガンダされた見方だ。(その前のも別のも)どっちの見方も歴史的なエヴィデンスに支えられていない。
*4

上の引用ははインドのオックスフォード大学出版の出した寡婦殉死アンソロジーよりメモしました。

 サティーの禁止をめぐる論争に特徴的なのは、植民地政府にしろ、現地のサティー支持派や反対派にしろ、紀元前から綿々と、もっぱらバラモンによってサンスクリットで書かれ、解釈・再解釈を重ねられてきた文献に依拠して、自らの主張の正当化を図った点である。このように、サティー論争の過程で確立した、一見したところ女性の命、権利、地位改善といった問題を論じながら、実際にはヒンドゥー社会のあるべき姿、「伝統」をめぐって議論が戦わされるというパターンは、以降たびたび繰り返されることになるのである。
【中略】
女性自身の声が聞こえてくることもなく、しかも、論者たちの理想とするヒンドゥー社会がきわだってバラモン的な価値観に偏っていたことは看過された。
*5

上の引用は19世紀前半のサティー禁止論争を議論した節よりメモしました。

 女児殺しは、科学技術の進歩によって、非常に陰湿な形で実行されるようになった。上位婚を好む北インドの諸地域では、このところ、女児の出生率が以前にも増して低くなっている。一九八〇年代に超音波診断が普及しはじめ、胎児の性別判定が可能となったので、女児と判明すると中絶する例が急増したからである。一九九四年には胎児の性別判定は違法となった。しかし、高い謝礼を支払ってでも性別判定を求める人々、金に目がくらんで法を犯す医者は後を絶たない。女児が成長して結婚するときに支払うダウリーのことを考えれば、非合法な性別判定の方が安くつくのである。
*6

上の引用は現代インドの入門書よりメモしました。

 ダウリーの金額は、一九六〇年代までは、一〇〇ルピーもかからなかったらしい。贈り物も雌牛をおくる程度だった。一九七〇年代半ば頃に五〇〇ルピー、一九八〇年代では、一,〇〇〇ルピーから高くても三,〇〇〇ルピー程度であったが、一九九〇年代半ばには一万ルピーに高騰した。二〇〇〇年代に入ると、一万ルピーから、多い場合には五万ルピーに及ぶ場合もみられるようになった
【中略】
贈り物も八〇年代には、雌牛の他には、腕時計、ラジオ、自転車程度だったが、九〇年代には、セイコーの時計、白黒テレビが必需品となり、ときにはバイクも贈られるようになった。
【中略】
二〇〇〇年代に入ると、大きなベッドや鏡台など持参財は大型化し、また、扇風機、圧力釜などの贅沢品に変わってきた。
【中略】
 結婚式の主要な儀礼の部分にあたるビヤーフは、花嫁の家でおこなわれるため、その費用も花嫁の家が負担する。その金額も半端なものではない。
【中略】
かつては、娘が三人いると家がつぶれると言われた。今は、ダウリーはいらないという家族もなかにはいるが、結婚に関わる費用は高騰化する一方である。
*7

 携帯電話は、花嫁と花婿の出会いの状況までも変えている。
【中略】
以前は、親戚が家族の評判をききあわせたり、探ったりすることがあった。今は、本人が直接、相手のところへ出かけたり、従兄弟たちが携帯電話で堂々と撮影するようになった。そのため、どちらかが気にいらないと破談になることもある。両親や親戚が決め、結婚式になるまで相手がまったくわからず、結婚してから恋愛が始まるとさえ言われた時代から、相手を選ぶこともできる時代へと大きく時代は変化している。
*8

上の引用はラージャスターンでないですが北インドのある村のフィールド・ワーク報告よりメモしました。

最後にまた心得的メモです。

【前略】
しばしばフェミニズム運動は西欧起源の胡散臭い代物、フェミニストはインドの「伝統」から遊離した西欧かぶれの少数派であるといったレッテル張りが容易となる。「伝統」を全面否定するのでもなく、上位カーストヒンドゥーの規範を基礎とした「伝統」を相対化し、ジェンダー抑圧的ではない新たな「伝統」を模索するという困難な作業に、今日の南アジアのフェミニズムは取り組んでいるといえるかもしれない。
 南アジアにおけるジェンダーをめぐるさまざまな問題は、古来からの連続としてではなく、十八世紀後半以降の政治・社会的な条件のもとで形成され、そしてより重要なのは、対抗されてきた問題であることをはっきりと認識する必要があろう。
*9

*1:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、159ページ。

*2:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、160-161ページ。

*3:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、175ページ。

*4:Romila Thapar, ''In History'', in Andrea Major, ed. Sati, New Delhi, 2007. pp.452-453.

*5:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、166ページ。

*6:井上貴子「伝統と近代の狭間で苦悩する女性たち―現代インドの女性問題」広瀬崇子、近藤正則、井上恭子、南埜猛編『現代インドを知るための60章』明石書店、2007年10月、212ページ。

*7:八木祐子「北インドの結婚式の変化―チャイからコーラへ」鈴木正崇編『南アジアの文化と社会を読み解く』慶應義塾大学東アジア研究所、2011年11月、91ページ。

*8:八木祐子「北インドの結婚式の変化―チャイからコーラへ」鈴木正崇編『南アジアの文化と社会を読み解く』慶應義塾大学東アジア研究所、2011年11月、103ページ。

*9:粟屋利江「南アジア世界とジェンダー―歴史的視点から」小谷汪之編『現代南アジア5社会・文化・ジェンダー東京大学出版会、2003年1月、182ページ。

カーストと人種について少しメモ

http://sankei.jp.msn.com/world/asia/100720/asi1007201124002-n1.htm

インドの婚姻については持参財殺人や「名誉」殺人など、深刻な問題がありますが、この記事について気になるコメントを見たので、久しぶりに更新します。

遺伝子解析のデータではインドのバラモンと下層カーストは「人種が別」らしい。古来からカースト差別が守られ続けた結果ほとんど混血しなかった証左。バラモンミトコンドリアDNAはヨーロッパ人種に近いそうです。

http://b.hatena.ne.jp/NATSU2007/20100721#bookmark-23372993

 ナツさんが紹介された、「バラモンと下層カーストは「人種が別」」といった話は、インドの人文・社会科学の文脈では、植民地主義の知の虚構として批判されてきたものと似ています。「バラモン」が「ヨーロッパ人種に近い」など典型的です。

 近代における人種概念と結びついた社会ダーウィニズムの害悪は有名でしょう。インド史上の人種問題の語られ方について、最近の概説書から拾ってみましょう。

 19世紀の人種理論家たちは、カーストの議論を「生物学的に決定された人種の本質」についての理論の中に組み込みました。*1 進んだ「肌の白いアーリヤ人」(インド・ヨーロッパ語族)と劣った「肌の黒い非アーリヤ人」の人種間闘争の結果、カーストが発達したといった見方は、高位カーストの間に「「純粋な」アーリヤ人の血」といった「誤ったプライド」を持たせたと批判されています。*2

 この人種理論は派生物を生みます。「バラモンは侵入者であるアーリヤ人の子孫だ」とし、「下のカーストこそ元からの住民であり、国土の正当な相続者だ」とする議論は19世紀以来あるそうです。これは、反バラモン運動に受けつがれていきます。また、20世紀になると、これを換骨奪胎したヒンドゥーナショナリズムの主張として、アーリヤ人こそ元からの住民である。つまり、上のカーストでなく、イスラム教徒やキリスト教徒こそが侵入者であるというものも出てきました。二つとも歴史学の主流から支持されていないそうです。現代の論議では、先住の文化に取って代わる形で大規模なアーリヤ人の侵入が起こったという考古学的形跡はほぼないと言います。*3 インドの歴史の中で、人種概念は政治的に利用されてきました。アーリヤ人と人種について、ターパルは以下の如く結語します。

生物学に基礎を置くという初期の主張にもかかわらず、人種とは本質的に社会的構築物である。最近の遺伝子研究はその主張をより弱めている。だから、「アーリヤ人」というより、「インド・アーリヤ語を喋った人たち」と言うのがより正確だ(これを略したものとして「アーリヤ人」を使うことはできるだろう)。これが、人種でなく言語集団を指すことは大切だ。言語集団は様々な人たちを含むことができる。 *4

私が参照しているものは2003年のペーパーバックですが、ハードカバーは2002年に出版されたそうです。ターパルの概説は、2000年代初めに出たものですが、ナツさんの提供される情報とは逆を向いています。

また、このような「科学的」人種と正統性を結びつける議論は、「混血」の忌避と親和的です。社会人類学者のベイリーは、「純粋なクシャトリヤの子孫」と主張する「カースト」を実例として、1988年になってもそのような「伝統の創造」があったと言います。*5

 さて、現代の遺伝子解析はより科学的なのでしょうが、「限定されたサークル内のみで挙行される婚姻の観察」、「肌の色の光と影、鼻と顎の形といったシンボリズム」に依拠し、「身体的型の差異が世界で一番顕著で持続している」と記したという植民地官僚*6 が思い出されたので記事を書きました。

 素人としては、地理的にヨーロッパ程度には広大で、数千年の歴史を持つインドについて語るだけの方法論的強さをその解析が持っているのか疑問です。内婚は独立後も広く強く残るカースト規制ですが、その強さは古来からの歴史の実態なのか、歴史的に新しく創られた「慣習」なのかは問題です。記事中に出てくるジャートについては、植民地時代に入るまで非ジャート女性と婚姻する習慣で知られており、内婚が強化されるのは19世紀以降と言います。*7 婚姻についてのヒンドゥー法典は紀元前数百年前からあるようですが、古代史家の山崎元一によると、「現実には異ヴァルナの女性との結婚も見られ」たと言い、「バラモンに関係するものを簡潔に記すならば、クシャトリヤ女性、ヴァイシャ女性との結婚は次善の手段として承認され、シュードラ女性との結婚は否定ないし消極的に承認されている。」と言われてもいます。*8 二つとも女性でなく男性の話であり、女性に対する差別の側面がより強調されもしますが、カースト制度の歴史的可変性については常に意識しておくべきなのではないだろうかと思います。日々の更新も満足にできない力不足の私が言えることではないですが、必要な範囲で歴史的な前提を調査し、差別の構造を認識し、解体への道程を考案していくのが正道でしょう。

*1: Susan Bayly, The New Cambridge History of India IV. 3: Caste, Society and Politics in India from the Eighteenth Century to the Modern Age, New Delhi, 2000. p.127.

*2:Susan Bayly, The New Cambridge History of India IV. 3: Caste, Society and Politics in India from the Eighteenth Century to the Modern Age, New Delhi, 2000. pp.174-175.

*3:Romila Thapar, The Penguin History of Early India from the Origins to AD 1300, New Delhi, 2003. pp.14-15.

*4:Romila Thapar, The Penguin History of Early India from the Origins to AD 1300, New Delhi, 2003. p.15.

*5:Susan Bayly, The New Cambridge History of India IV. 3: Caste, Society and Politics in India from the Eighteenth Century to the Modern Age, New Delhi, 2000. pp.328-329.

*6:Veema Das, ed., Handbook of Indian Sociology, New Delhi, 2004. p.25.

*7:Susan Bayly, The New Cambridge History of India IV. 3: Caste, Society and Politics in India from the Eighteenth Century to the Modern Age, New Delhi, 2000. pp.53,221-222.

*8:山崎元一『古代インドの王権と宗教』刀水書房、1994年、302ページ。

印パ分離独立の写真

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091127_India_population_burst/

を見て、少し歴史に思いを巡らしました。以下のリンクは1947年の分離独立の時にインドよりパキスタンへ向かう列車の写真です。

http://www.time.com/time/photogallery/0,29307,1649065_1420822,00.html

BBCにも分離独立の写真特集がありました(上の方には一部悲惨な写真もありますから注意してください)。

http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/pop_ups/06/south_asia_india0s_partition/html/1.stm

http://news.bbc.co.uk/cbbcnews/hi/newsid_6940000/newsid_6947200/6947269.stm



蛇足ですが、東京のラッシュ時通勤電車の詰め込み具合に勝る圧力を体験したことはありません。

ガーンディー、村落共同体、市民社会について少しメモ

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20091105#1257418016

 ガーンディーの分権化論の紹介を読みました。記事の内容に直接的関連はないのですが、間接的に関連する南アジアの文脈について補足的にメモしておきます。



 分権化論の背景として、オリエンタリストのインド村落共同体像の問題があります。
 「太古以来の」、「外部から独立的な」、自給自足的「小さな共和国」、「村落共和国」という村落共同体像は、植民地官僚が理想化し、植民地体制の法や経済の前提とすることで現実の影響力を持って構築/改変されていったという研究があります。それによれば、そのような「理想化された村落」は、「古代の遺産としての自生的な民主主義観念の証拠」として、逆説的にインドのナショナリストにも採用されたといいます*1

 別の研究ですが、ガーンディーの「独立した村落のネットワーク」という構想もオリエンタリストの「村落共和国」にインスパイアされたものという言及もありますし、独立後のヒンドゥーナショナリストの中にも「伝統的な政治」として分権化された国家を好む人々がいるという言及もあります(しかし、ヒンドゥーナショナリストは多様性を拒絶する点で特異だといいます)*2



 ガーンディーと市民社会については、市民社会の創造者としてのガーンディーという議論もあります。

 国家は重要だが公共善の舞台としてはもろすぎる。
【中略】
ガーンディーの道場で、社会変革に至る道とは、内的自己の変形、ヒューマン・アクターの意志の変形だ。アンタッチャビリティの信条や強奪的な結婚持参金の実践のような不正義の実践を構成する世界観と行動は、法律の弱い手では動揺せず、コミットするアソシエーションでの日常的な説得と正義の制定が動かす。変革は政治的活動以上のものだ。法律とパブリック・ポリシーとパブリック・サンクションを動かす政治的活動ではコーヒーハウスと政治的クラブで十分だ。ガーンディーの変革は社会構造だけでなく主観的なことにも乗り出す社会的活動だ。そんな政治プロセスには、18世紀のコーヒーハウス、パブ、リテラリー・ソサイエティの限定されたラショナリストの他に、運び手が必要だ*3

*1:Thomas R. Metcalf, The New Cambridge History of India III. 4: Ideologies of the Raj, New Delhi, 1998. pp. 69-72.

*2:Christophe Jaffrelot, ''Hindu Nationalism and Democracy'', in Niraja Gopal Jayal, ed. Democracy in India, New Delhi, 2001. p. 517.

*3:Susanne Hoeber Rudolph and Lloyd I. Rudolph, ''The Coffee House and the Ashram: Gandhi, Civil Society and Public Spheres'', in Carolyn M. Elliott, ed. Civil Society and Democracy, New Delhi, 2003. pp. 403-404.

現代南アジアの入門書についてメモ

id:bluesy-kさんの
http://q.hatena.ne.jp/1255022476
に大変遅くなりましたが回答してみたいと思います。

  • 辞典

 覚えられない世界史用語は大量にありますため、辞典があると便利です。

『角川世界史辞典』
http://www.kadokawagakugei.com/detail.php?p_cd=200000000279
『山川世界史小辞典』
http://www.yamakawa.co.jp/gestsearch-1syosai.asp?id=59709617

  • 高校歴史教科書『世界史A』

 『世界史A』は近現代史を中心にした科目です。受験向けではないため、内容は易しめに厳選されてます。執筆者も正真正銘のプロです。最初に流れを見るためにも、最後にエッセンスを確認するためにも実は便利です。下のリンク以外にも出版社は沢山あるため、地域の教科書を販売する本屋に行けば比較できます。

http://www.jikkyo.co.jp/bookDetail.do?book_id=70001
http://www.teikokushoin.co.jp/textbook/high/index08.html
http://tb.sanseido.co.jp/society/19_text/19_whistory_a.html

  • 資料集

 工夫された地図や年表などが知識の整理に便利です。これらも各社あります。教科書コーナーのある本屋に行けば比較できます。

『最新世界史図説タペストリー』
http://www.teikokushoin.co.jp/materials/supplementary/index20.html
『ダイアローグ世界史図表』
http://www.daiichi-g.co.jp/chireki/list.asp?SHU=51&SSIR=&CD=53905_&NENDO=2009&HAN=07&BNSTU=_&end=1
『世界史図録ヒストリカ』
http://www.yamakawa.co.jp/gestsearch-1syosai.asp?id=59708694

  • 南アジアの歴史

 沢山の先生が分担して書かれたものが内容は高度なのですが、入り口には一人の先生が書かれたものがわかりやすいと思います。紹介しますのは日本人の近現代史の先生が書かれたもの、近現代が充実しています。

中村平治『インド史への招待』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33631.html

  • 各国の現代

 民族や政治経済については各論です。沢山のテーマをコンパクトにした明石書店のシリーズが入り口として便利です。以下で目次があります。

『現代インドを知るための60章』
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2642-9
『インドを知るための50章』
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-1715-2
『ネパールを知るための60章』
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-1328-3.html
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-1328-9
バングラデシュを知るための60章』
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-1767-5
パキスタンを知るための60章』
http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-1762-4

印中東部国境について少しメモ

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/11/post-1b50.html
印中東部国境についての記事を見たので、関連して少しメモしておきます。引用文の注の番号は省いてあります。


したがってイギリス・インドの立場からする限り、インドが大英帝国時代の国際法的地位を継承したことは疑いがない。国境問題は存在しないとの姿勢とシムラ協定有効論はまずはこのことを前提とする。
 問題となるのは条約上の相手国との関係である。中国の国家的同一性は国際法的には維持されており、インド政府が中華人民共和国政府を承認し外交関係を設定した時点で、両国間の領土・条約等の国際法上の基本的な関係は継承された。ただ、「イギリス(インド)とチベット間の条約協定については、中国が締約国として結んだものであるか、あるいは締約者はチベットであるが、そのチベットは独立国であったか、それとも中国の従属国であったかによって、条約協定の効力に関する評価も、同一ではない。しかも、イギリスの一方的措置チベット当局にたいする通告で、当然に中国をも拘束するものではない」(入江1964:133)。最低限、中国のチベットに対する宗主権を認めるとすれば、中国が署名していないシムラ協定の国際法的有効性には疑問が残る。

相手が友好国であり、係争点が戦略上(軍事的意味でも、エネルギー確保の点でも)の重要点ではない限り、対ビルマ国境や、対インド東部国境で見せたように(このことは言うまでもなくマクマホン・ラインを承認するのではない、という形式が守られる限りにおいてである)、中国には面積の多寡にかかわりなく領土問題で妥協する用意があることは明らかである。これは安全保障上のコストを大局的に考える姿勢の現れでもある。同時に、新蔵公路が横たわる西部国境のアクサイチンについては(東部以上にインドの領土主張が根拠薄弱なのはもちろんだが)、その戦略的意義から中国の立場は妥協の余地のないものとなる。ホワイティングも「1962年にはインドの要求によって脅かされた領域は、アクサイチンを除けば、軍事的、経済的、そして政治的必要にとっても本質的に重要ではなかった」(Whiting 1975:199-200)と述べている。この地域と新蔵公路の確保は、中国のチベット統治にとって不可欠の重要性をもった(Garver 2001:88-90;Ispahani 1989:171)。また、敵対的な国境侵犯を放置しないことは1962年の国境紛争を含めて、多くの中国の行動が証明するとおりである。この点はどこの国にもある程度は共通して当てはまることであるが、アヘン戦争以来、自らの国境を帝国主義によって恣に蹂躙されてきた中国にとっては、とりわけこの思いは強い。また、国民の思いも同じであり指導部が一方的に妥協を許されない問題領域でもある。中印紛争後の中国の一方的停戦と撤兵をホワイティングは「近代史上空前絶後の」(Whiting1975:IntroductionXVIII)と表現したが、この一方的行動は、後述のとおり、国境問題を軍事的手段によって解決しない、という方針の現れとみるのが合理的であろう。

帝国主義との戦いにおいて自己を組織化してきた共産党にとって、反帝国主義という点は妥協の余地のないものである。したがって、中国を代表する政府が承認したことのないシムラ協定はもとより、それに由来するマクマホン・ラインの正当性については微塵もそれを認められない。また同時に、シムラ協定の承認は次項とも関連するが、チベットの外交権を承認することにもつながり、絶対に認める訳にはいかないのである。

打開の目途が立たなくなった中印間の国境問題について、1960年4月、首相会談がもたれる。中国はここで、事実上の東西交換論を提示した。この東西交換論は、中国が、マクマホン・ラインで譲歩するという内容を含んでいた。このマクマホン・ラインには極めて複雑な背景がある。要点だけ述べれば、1914年のシムラ協定に、中国の中央政府は署名していないし、この協定を一度も承認したことはない。したがって、マクマホン・ラインが中印間の国境線であるというのはインド側の一方的な主張に過ぎない。中国が伝統慣習線で解決しようとした東部国境問題を、インドは「シムラ協定」がある以上、それを基礎にすべきだという立場に立ったのである。その他の国との条約はたとえ不平等条約であっても、当時の中国政府がともかくも署名し承認をした条約であったが、シムラ協定については、不平等条約であることはもとより、そもそも中国政府は正式に署名をしていないし、承認したことさえない。インドはそのような協定を交渉の場に持ち出してきたのであった。東西交換論は、マクマホン・ラインを−それ自体の合法性は承認しないものの−事実上交渉の基礎とする現実的な立場を示したものであり、中国の妥協を意味した。

ここで確認すべきことは、中印関係とチベット問題とは切り離せない問題であるが、同時に中印間の紛争はあくまで2国間の国境問題であり、2国間関係において基本的には考察されうるということである。1959年のチベット反乱は大きな事件であったが、チベット反乱が中印国境紛争の原因なわけではない。

インドが本格的な前進政策をとったのは、1961年2月からである。そしてこの挑発的な政策が、中国の全面的反撃を引き出すことになった。周知のとおり東部国境と西部国境において中国の進撃はインドの朝野を震撼させた。中国の軍事行動の目的は、まずは国境侵犯を断固として追い払うことにあった。もとより、可能ならインドを交渉のテーブルに着かせることも望んだ。中国はまた、これも周知のとおり、1カ月後に全面的な一方的停戦と撤退を行うことになる。この中国の行動は、敵対的国境侵犯は放置しないという方針と同時に、国境問題は武力で解決しないという原則を示したものであると言えよう。もし、領土奪取が目的だとすれば、中国はタワンに居座ることもできたはずである(タワンの領有を主張しても国際法上の根拠は決して薄弱ではなかった)。中国の撤退はインドとの外交関係の継続の意思を示したものであるが、それは結局交渉の再開には結びつかなかった。しかしながら、この紛争後長期にわたり中印間では冷却した関係が続くことによって、中印間の国境線は事実上この紛争によって定まったのであった(例えばマクスウェル1972:609また588も参照)。

出所:真水康樹「ミクロ・マクロリンケージアプローチと国境紛争―中印国境紛争における象徴的マクロ構造の比較考察」『法政理論』第39巻第2号、2007年2月
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/handle/10191/6069


  • 最近の印中関係について

印中関係は全般的には改善の方向に向かっているが、細かいタイムスパンでみた場合にはアップダウンがあり、現在は小康状態といったところである。国境問題を解決したいという意欲はこれまでになく強いようにみえるが、人間が住んでいる領域を動かすことは容易ではない。2005 年4 月の温家宝首相のインド訪問時には、国境問題解決に向けて小さな一歩ではあるが前進した。両国は「国境問題解決のための政治的指針と指導原則」に調印したのである。両国は武力の行使やその威嚇を行わず、平和5 原則の精神に基づいて、互いに相手国の戦略的利益に配慮し、そして国境地域で影響を受ける住民の利益の保護を考慮した上で、最終的かつ全地区にまたがる包括的な解決を目指すと約束した。インドは、それまで東部、中部、西部の別個の解決を主張していたから、包括的解決という点ではインド側が譲歩したことになる。また、国境が最終的に画定されるまでは、実効支配線を尊重して、国境地帯の平和と平穏を守るとした20。しかし、具体的な問題に入ると解決の困難さが際立ってくる。中国はタワンと呼ばれる地域を特にチベット仏教との関係から主張しており、西部国境アクサイチンでの譲歩の用意もあると伝えられるが、タワンをインドが譲渡することも難しく、交渉はあまり進展していない。両国は一歩ずつ、極めてゆっくりと解決に向かって歩んでいるといえよう。

出所:広瀬崇子「インド政治・外交の最新動向」財団法人国際金融情報センター『インド経済の諸課題と対印経済協力のあり方(財務省委嘱調査)』、2006年
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/1803india_6.pdf

 インド外交が米国に次いで重視するのが中国との関係である。印中関係は1980年代後半以降徐々に改善し、現在、いわば、通常の二国間関係になっている。しかし、印中関係にはプラスとマイナスの両側面が併存しており、依然としてアンビバレントな二国間関係と表現でき、インドは米日の対中政策とも共通する「関与と要心」(engagement and hedge)政策を続けることになろう。

一方、印中関係におけるマイナス面については、両国間の国境問題が最大の難問である。

出所:堀本武功・溜和敏「第2次UPA 政権の外交政策」近藤則夫編『インド政治経済の展開と第15次総選挙―新政権の課題』アジア経済研究所、2009年10月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2009_305_03.pdf


  • インド北東地方について

インド北東地方の紛争はさまざまな形態をとっている。ナガ族やミゾ族による反インド分離独立武力闘争のように政治・軍事色の強い紛争、多数派人種・部族から少数派部族への組織的圧力と攻撃、逆に少数派部族から多数派への暴力的をともなう反撃、旧来の住民と新しく流入し定住した新住民の間の経済・社会的利害対立に起因する暴力抗争、アッサム州の少数派部族であるボド族が展開する自治州要求闘争など、多様である。これらの紛争の原因も多様である。多くの紛争に、複数の要因が絡んでいる。移住と定住が繰り返されてきた住民史、それによる民族構成の特性、山岳・丘陵・盆地・川流域平野部が複雑に入り組む地形による生活形態の多様性、イギリス植民地時代からの北東地方の隔絶性と孤立性、1947 年のインド独立以降の国家形成過程、独立後のインド国内政治体制・経済開発のなかでの「僻地」としての位置づけ、また、中印対立・冷戦体制・近隣諸国関係といった国際関係の影響などが、それぞれのウエイトの差はありながら多くの紛争に深く絡んできた。
 北東地方の紛争の分析には、これらの要素を慎重に検討し、解きほぐし、再構成する必要がある。

なお、北東地方の各州の言語状況を説明する前に、北東地方全体について共通する特徴であり、かつ言語的人口構成を特徴づける点を2点、簡単に指摘しておきたい。第1点は、これまで見てきたように、北東地方諸州が多言語の州だということである。第2点は、北東地方諸語の話者がインド他地域に進出する程度は、インド他地域の諸語を話す人々とくにベンガーリーやヒンディ語を話す人口的・政治的に優勢な人々による北東地方進出に比べて格段に小さいことである。北東地方は、インド他地域からの人口の受け手であり、決して出し手であったことはなかった。そのことは北東地方に、インド他地域との関係また中央・州関係で常に、被抑圧者としての特性、受け手としての特性を与え続けた。



(1)アルナーチャル・プラデシュ
 アルナーチャル・プラデシュ州で1000 人以上の話者人口を持つ言語は15、そのうち北東地方諸語は13 である。この州には単独多数派言語はない。

出所:井上恭子「インド北東地方―言語をめぐる状況」武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告』アジア経済研究所、2002年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2001_03_06_04.pdf
図1 北東諸州の位置
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2001_03_06_04zu01.pdf


 確かに中国とインドは仮想敵国の関係にありますが、大規模な衝突をする可能性や核戦争をする可能性については非常に低いのでないかと思います。その低い可能性の一因は合従連衡にもよるのでしょう。

パシュトゥーニスタン問題についてメモ

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20091018/1255874193

を読んで、気がついた論文をメモしておきます。

 専門家の使用しているタームであれば、何がしかの根拠があると推定して参考文献を読んでみたり、著者の他の論文を探してみることが生産的だと思われます。



 パシュトゥーン民族居住地域は帝国主義時代以来の「国境」で分断されており、それについての問題があります。


1893 年、イギリス領インド帝国アフガニスタンとの間で「デュアランド線」(Durand Line)という境界線が引かれた。これは第2次イギリス・アフガニスタン戦争(1878-81年)によってアフガニスタンがイギリスの被保護国にされたことに伴って引かれた境界線である。この合意から54年後の1947年、パキスタン建国によってデュアランド線はアフガニスタンパキスタンの国境線ということになった。いずれのアフガニスタン政府もこの境界線を「国境」と承認したことはなく、同国とパキスタンの関係は常に緊張をはらんできた。歴代のアフガニスタン政府は、パシュトゥーン(Pashtun)民族居住地のうちパキスタン領になっている地域を独立させるかアフガニスタンに併合するという構想を抱いてきた。

出所:深町宏樹「パキスタンの対アフガニスタン関係」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_04.pdf

デュアランド線はその後もインドおよび1947年以降パキスタンとの実際上の国境線として固定化する一方、アフガニスタン国内においてはパシュトゥーン民族主義者たちによる「パシュトゥーニスタン」運動の最大の攻撃目標ともなった。

出所:鈴木均「アフガニスタン国家の特質と対周辺国関係について」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_01.pdf

アフガニスタンがしばしば,パキスタンとの関係悪化と経済的危機を賭してまで打ち出すパシュトゥーニスターン問題は,アフガニスタンの政治構造においてどのような意味を持つのであろうか.パシュトゥーン系部族はデュアランド・ラインつまり国境を挟んで相互につながりをもっており通婚圏もつくっている.当然,パシュトゥーニスターン構想は双方のパシュトゥーン,特にアフガニスタン側のパシュトゥーンに訴えかけるものを持っている.アフガニスタンにおいてパシュトゥーンは最大かつ最も有力な集団であるばかりか,国軍の勇猛果敢な中核将兵を供給としていることで知られる.兵員を調達する場合,各部族長の意向を無視するとしばしば反乱が発生するなど中央集権化を求めた政府はしばしば困難な立場に陥った.部族的秩序が支配するこのパシュトゥーン社会の動向はアフガニスタン政府にとって決定的な意味を持ってきたのはそのためである.

出所:清水学アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」『一橋論叢』第133巻第4号、2005年4月
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/15357

アフガニスタンのパシュトゥーン民族主義勢力は、伝統的にデュアランド・ラインを「国境」と認めていない。パキスタンの歴代政権は、そのような民族主義勢力に対処するために、民族主義を否定しイスラーム共同体(ウンマ)の団結を強調するアフガニスタンの特に最大構成民族であるパシュトゥーンを主体とするイスラーム主義勢力を支援してきていた。これは、カシュミール問題でインドと前面で対峙するパキスタンにとって、背後のアフガニスタンに親パキスタン政権を確保しようとする安全保障政策の一環である。

出所:柴田和重「パキスタンの「ターリバーン化」―アフガニスタン安定化への足枷―」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_05.pdf