宗派暴動と政治について少しメモ

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20091012#1255322225
を読みました。世俗化が魔法の鍵でないことには同意します。



 他方、「コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできない」というのも少し単純化しすぎではないかと思ったので、関連して少しメモをしておきたいと思います。

 「すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズム」という要約がインドの論壇を見てどれほど有効かということは検討の余地があるでしょう。例えば、ナンディーらの批判に応えて''Contextual Secularism''を推奨するバールガヴァのような立場もあります*1

 西洋的セキュラリズムの限界やインドでの悪用を指摘し、それでもセキュラリズムを推奨するエンジニアも「大衆は宗教的であって、コミュナルではない」と述べているように、「超越的立場」に座っているわけでも「客体化された宗教」を相手にしているわけでもないと思います*2

 バールガヴァもエンジニアも宗教的寛容の役割を大きく評価していることもメモしておきます。



 入手しやすい関連した研究動向の整理として、近藤則夫「インドにおける現代のヒンドゥーナショナリズムと民主主義―研究レビュー」近藤則夫編『インド民主主義体制のゆくえ―多党化と経済成長の時代における安定性と限界』アジア経済研究所、2008年

http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2007_01_06_06.pdf

があります。それから少しメモしておきます。

また、間欠泉のように吹き出る暴動などコミュナリズやナショナリズムのエネルギー、さらには佐藤の指摘する「セキュラリズム」などの「理念の溶解」などを理解するためにも社会変動の理解が欠かせない。「理念の溶解」はイデオロギーあるいは政治の領域の内側だけで起こったというよりも、都市化の進展とスラムの拡大、中産層の増大、消費文化の浸透といったよりマクロな経済社会変動からじわじわと影響をうける形で進行していったと見るのが適切ではないかと思われる。Jaffrelot の研究においても中産階層の青年層、失業層などにヒンドゥーナショナリズムの伸張を重ね合わせる試みはなされているものの、実証研究としてはまったく不十分である。どのような人々が、そして、なぜ運動を受け入れ、それに参加するのか、そしてそこにおいて発生する問題が分析される必要があるであろう。

以上は社会運動という視点からヒンドゥーナショナリズムの拡散と社会との関係を実証的に探ったものであるが、依然としてどのような階層がヒンドゥーナショナリズムにどのように参加しているのか、全体像が浮かび上がるというにはほど遠い。もっともこれは1個人の研究者に対しては過大要求であるであろう。

いままでの議論でヒンドゥーナショナリズムと社会の関係を考えると、それを突き動かすものとして暴力、暴動が重要になってくる。様々なコミュナルな言説も亀裂を作り出し、多数派を少数派に対置させることにより多数派がまとまる効果があるであろうが、コミュナル暴動の効果はそれを凌駕する。最後にこの点を検討したい。

コミュナル暴動はヒンドゥームスリムなどの宗教的少数派の間の亀裂を決定的にし、その上で少数派に対抗してヒンドゥーの「統合」を進める効果がある。

Brass は選挙がコミュナル暴動を誘発するとする因果関係の方向性を完全に否定したわけではないが、逆の方が実態にあうことをフィールドサーベイに基づくミクロな研究から示した。Brass はコミュナル暴動は自然発生的に起こるのではなく、それによって利益を受けるものが人為的に生み出すもの、つまり、極めて政治的なものであるとし、それを「制度化された暴動システム」(institutionalized riot systems)と名付けている。逆にいえば、そのような人為的なものとするならばコミュナル暴動の発生および拡大はもし、政府が厳に抑制する政治的意志をもてば抑止できるものと見る。

 このBrass の仮説は丹念なミクロなフィールド調査に裏打ちされているだけあって、大規模なコミュナル暴動に関しては非常に説得力を持つと言える。1992年のアヨーディヤー事件とそれにつづくコミュナル暴動、2002年2月のグジャラート州ゴードラの列車火災事件をきっかけとして広がったコミュナル暴動はいずれも「制度化された暴動システム」というにふさわしいと考えられる。特に後者の場合、Engineer (ed.) [2003]によればグジャラートBJP 州政府の不作為、または、関与は明らかであると思われる。

コミュナル暴動についてこのような背景があるのであったら、「コミュナリスト」の行う「大衆」煽動を見過ごす政府を「セキュラリスト」的に批判することにも一定の意味があるように思われます。



 最後に、些細な点ですが、インドの「中間層」は最近になって経済的に上昇してきたものとして使用されることが多い印象があるので、「相対的に低下していく中間層以下」という表現の妥当性に疑問を持ちました。



(追記)近藤則夫「インドにおける現代のヒンドゥーナショナリズムと民主主義―研究レビュー」近藤則夫編『インド民主主義体制のゆくえ―多党化と経済成長の時代における安定性と限界』アジア経済研究所、2008年からの引用を追加しました。誤植もそのままにしてあります。

*1:Rajeev Bhargava, 'What is Secularism For', in R. Bhargava, ed. Secularism and its Critics, New Delhi, 1998.

*2:Asghar Ali Engineer, 'Communalism, Its Facets, Roots and Remedies', in Selected Writings on Communalism, New Delhi, 1994. pp. 188-192.