印中東部国境について少しメモ

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/11/post-1b50.html
印中東部国境についての記事を見たので、関連して少しメモしておきます。引用文の注の番号は省いてあります。


したがってイギリス・インドの立場からする限り、インドが大英帝国時代の国際法的地位を継承したことは疑いがない。国境問題は存在しないとの姿勢とシムラ協定有効論はまずはこのことを前提とする。
 問題となるのは条約上の相手国との関係である。中国の国家的同一性は国際法的には維持されており、インド政府が中華人民共和国政府を承認し外交関係を設定した時点で、両国間の領土・条約等の国際法上の基本的な関係は継承された。ただ、「イギリス(インド)とチベット間の条約協定については、中国が締約国として結んだものであるか、あるいは締約者はチベットであるが、そのチベットは独立国であったか、それとも中国の従属国であったかによって、条約協定の効力に関する評価も、同一ではない。しかも、イギリスの一方的措置チベット当局にたいする通告で、当然に中国をも拘束するものではない」(入江1964:133)。最低限、中国のチベットに対する宗主権を認めるとすれば、中国が署名していないシムラ協定の国際法的有効性には疑問が残る。

相手が友好国であり、係争点が戦略上(軍事的意味でも、エネルギー確保の点でも)の重要点ではない限り、対ビルマ国境や、対インド東部国境で見せたように(このことは言うまでもなくマクマホン・ラインを承認するのではない、という形式が守られる限りにおいてである)、中国には面積の多寡にかかわりなく領土問題で妥協する用意があることは明らかである。これは安全保障上のコストを大局的に考える姿勢の現れでもある。同時に、新蔵公路が横たわる西部国境のアクサイチンについては(東部以上にインドの領土主張が根拠薄弱なのはもちろんだが)、その戦略的意義から中国の立場は妥協の余地のないものとなる。ホワイティングも「1962年にはインドの要求によって脅かされた領域は、アクサイチンを除けば、軍事的、経済的、そして政治的必要にとっても本質的に重要ではなかった」(Whiting 1975:199-200)と述べている。この地域と新蔵公路の確保は、中国のチベット統治にとって不可欠の重要性をもった(Garver 2001:88-90;Ispahani 1989:171)。また、敵対的な国境侵犯を放置しないことは1962年の国境紛争を含めて、多くの中国の行動が証明するとおりである。この点はどこの国にもある程度は共通して当てはまることであるが、アヘン戦争以来、自らの国境を帝国主義によって恣に蹂躙されてきた中国にとっては、とりわけこの思いは強い。また、国民の思いも同じであり指導部が一方的に妥協を許されない問題領域でもある。中印紛争後の中国の一方的停戦と撤兵をホワイティングは「近代史上空前絶後の」(Whiting1975:IntroductionXVIII)と表現したが、この一方的行動は、後述のとおり、国境問題を軍事的手段によって解決しない、という方針の現れとみるのが合理的であろう。

帝国主義との戦いにおいて自己を組織化してきた共産党にとって、反帝国主義という点は妥協の余地のないものである。したがって、中国を代表する政府が承認したことのないシムラ協定はもとより、それに由来するマクマホン・ラインの正当性については微塵もそれを認められない。また同時に、シムラ協定の承認は次項とも関連するが、チベットの外交権を承認することにもつながり、絶対に認める訳にはいかないのである。

打開の目途が立たなくなった中印間の国境問題について、1960年4月、首相会談がもたれる。中国はここで、事実上の東西交換論を提示した。この東西交換論は、中国が、マクマホン・ラインで譲歩するという内容を含んでいた。このマクマホン・ラインには極めて複雑な背景がある。要点だけ述べれば、1914年のシムラ協定に、中国の中央政府は署名していないし、この協定を一度も承認したことはない。したがって、マクマホン・ラインが中印間の国境線であるというのはインド側の一方的な主張に過ぎない。中国が伝統慣習線で解決しようとした東部国境問題を、インドは「シムラ協定」がある以上、それを基礎にすべきだという立場に立ったのである。その他の国との条約はたとえ不平等条約であっても、当時の中国政府がともかくも署名し承認をした条約であったが、シムラ協定については、不平等条約であることはもとより、そもそも中国政府は正式に署名をしていないし、承認したことさえない。インドはそのような協定を交渉の場に持ち出してきたのであった。東西交換論は、マクマホン・ラインを−それ自体の合法性は承認しないものの−事実上交渉の基礎とする現実的な立場を示したものであり、中国の妥協を意味した。

ここで確認すべきことは、中印関係とチベット問題とは切り離せない問題であるが、同時に中印間の紛争はあくまで2国間の国境問題であり、2国間関係において基本的には考察されうるということである。1959年のチベット反乱は大きな事件であったが、チベット反乱が中印国境紛争の原因なわけではない。

インドが本格的な前進政策をとったのは、1961年2月からである。そしてこの挑発的な政策が、中国の全面的反撃を引き出すことになった。周知のとおり東部国境と西部国境において中国の進撃はインドの朝野を震撼させた。中国の軍事行動の目的は、まずは国境侵犯を断固として追い払うことにあった。もとより、可能ならインドを交渉のテーブルに着かせることも望んだ。中国はまた、これも周知のとおり、1カ月後に全面的な一方的停戦と撤退を行うことになる。この中国の行動は、敵対的国境侵犯は放置しないという方針と同時に、国境問題は武力で解決しないという原則を示したものであると言えよう。もし、領土奪取が目的だとすれば、中国はタワンに居座ることもできたはずである(タワンの領有を主張しても国際法上の根拠は決して薄弱ではなかった)。中国の撤退はインドとの外交関係の継続の意思を示したものであるが、それは結局交渉の再開には結びつかなかった。しかしながら、この紛争後長期にわたり中印間では冷却した関係が続くことによって、中印間の国境線は事実上この紛争によって定まったのであった(例えばマクスウェル1972:609また588も参照)。

出所:真水康樹「ミクロ・マクロリンケージアプローチと国境紛争―中印国境紛争における象徴的マクロ構造の比較考察」『法政理論』第39巻第2号、2007年2月
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/handle/10191/6069


  • 最近の印中関係について

印中関係は全般的には改善の方向に向かっているが、細かいタイムスパンでみた場合にはアップダウンがあり、現在は小康状態といったところである。国境問題を解決したいという意欲はこれまでになく強いようにみえるが、人間が住んでいる領域を動かすことは容易ではない。2005 年4 月の温家宝首相のインド訪問時には、国境問題解決に向けて小さな一歩ではあるが前進した。両国は「国境問題解決のための政治的指針と指導原則」に調印したのである。両国は武力の行使やその威嚇を行わず、平和5 原則の精神に基づいて、互いに相手国の戦略的利益に配慮し、そして国境地域で影響を受ける住民の利益の保護を考慮した上で、最終的かつ全地区にまたがる包括的な解決を目指すと約束した。インドは、それまで東部、中部、西部の別個の解決を主張していたから、包括的解決という点ではインド側が譲歩したことになる。また、国境が最終的に画定されるまでは、実効支配線を尊重して、国境地帯の平和と平穏を守るとした20。しかし、具体的な問題に入ると解決の困難さが際立ってくる。中国はタワンと呼ばれる地域を特にチベット仏教との関係から主張しており、西部国境アクサイチンでの譲歩の用意もあると伝えられるが、タワンをインドが譲渡することも難しく、交渉はあまり進展していない。両国は一歩ずつ、極めてゆっくりと解決に向かって歩んでいるといえよう。

出所:広瀬崇子「インド政治・外交の最新動向」財団法人国際金融情報センター『インド経済の諸課題と対印経済協力のあり方(財務省委嘱調査)』、2006年
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/1803india_6.pdf

 インド外交が米国に次いで重視するのが中国との関係である。印中関係は1980年代後半以降徐々に改善し、現在、いわば、通常の二国間関係になっている。しかし、印中関係にはプラスとマイナスの両側面が併存しており、依然としてアンビバレントな二国間関係と表現でき、インドは米日の対中政策とも共通する「関与と要心」(engagement and hedge)政策を続けることになろう。

一方、印中関係におけるマイナス面については、両国間の国境問題が最大の難問である。

出所:堀本武功・溜和敏「第2次UPA 政権の外交政策」近藤則夫編『インド政治経済の展開と第15次総選挙―新政権の課題』アジア経済研究所、2009年10月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2009_305_03.pdf


  • インド北東地方について

インド北東地方の紛争はさまざまな形態をとっている。ナガ族やミゾ族による反インド分離独立武力闘争のように政治・軍事色の強い紛争、多数派人種・部族から少数派部族への組織的圧力と攻撃、逆に少数派部族から多数派への暴力的をともなう反撃、旧来の住民と新しく流入し定住した新住民の間の経済・社会的利害対立に起因する暴力抗争、アッサム州の少数派部族であるボド族が展開する自治州要求闘争など、多様である。これらの紛争の原因も多様である。多くの紛争に、複数の要因が絡んでいる。移住と定住が繰り返されてきた住民史、それによる民族構成の特性、山岳・丘陵・盆地・川流域平野部が複雑に入り組む地形による生活形態の多様性、イギリス植民地時代からの北東地方の隔絶性と孤立性、1947 年のインド独立以降の国家形成過程、独立後のインド国内政治体制・経済開発のなかでの「僻地」としての位置づけ、また、中印対立・冷戦体制・近隣諸国関係といった国際関係の影響などが、それぞれのウエイトの差はありながら多くの紛争に深く絡んできた。
 北東地方の紛争の分析には、これらの要素を慎重に検討し、解きほぐし、再構成する必要がある。

なお、北東地方の各州の言語状況を説明する前に、北東地方全体について共通する特徴であり、かつ言語的人口構成を特徴づける点を2点、簡単に指摘しておきたい。第1点は、これまで見てきたように、北東地方諸州が多言語の州だということである。第2点は、北東地方諸語の話者がインド他地域に進出する程度は、インド他地域の諸語を話す人々とくにベンガーリーやヒンディ語を話す人口的・政治的に優勢な人々による北東地方進出に比べて格段に小さいことである。北東地方は、インド他地域からの人口の受け手であり、決して出し手であったことはなかった。そのことは北東地方に、インド他地域との関係また中央・州関係で常に、被抑圧者としての特性、受け手としての特性を与え続けた。



(1)アルナーチャル・プラデシュ
 アルナーチャル・プラデシュ州で1000 人以上の話者人口を持つ言語は15、そのうち北東地方諸語は13 である。この州には単独多数派言語はない。

出所:井上恭子「インド北東地方―言語をめぐる状況」武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告』アジア経済研究所、2002年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2001_03_06_04.pdf
図1 北東諸州の位置
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2001_03_06_04zu01.pdf


 確かに中国とインドは仮想敵国の関係にありますが、大規模な衝突をする可能性や核戦争をする可能性については非常に低いのでないかと思います。その低い可能性の一因は合従連衡にもよるのでしょう。