パシュトゥーニスタン問題についてメモ

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20091018/1255874193

を読んで、気がついた論文をメモしておきます。

 専門家の使用しているタームであれば、何がしかの根拠があると推定して参考文献を読んでみたり、著者の他の論文を探してみることが生産的だと思われます。



 パシュトゥーン民族居住地域は帝国主義時代以来の「国境」で分断されており、それについての問題があります。


1893 年、イギリス領インド帝国アフガニスタンとの間で「デュアランド線」(Durand Line)という境界線が引かれた。これは第2次イギリス・アフガニスタン戦争(1878-81年)によってアフガニスタンがイギリスの被保護国にされたことに伴って引かれた境界線である。この合意から54年後の1947年、パキスタン建国によってデュアランド線はアフガニスタンパキスタンの国境線ということになった。いずれのアフガニスタン政府もこの境界線を「国境」と承認したことはなく、同国とパキスタンの関係は常に緊張をはらんできた。歴代のアフガニスタン政府は、パシュトゥーン(Pashtun)民族居住地のうちパキスタン領になっている地域を独立させるかアフガニスタンに併合するという構想を抱いてきた。

出所:深町宏樹「パキスタンの対アフガニスタン関係」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_04.pdf

デュアランド線はその後もインドおよび1947年以降パキスタンとの実際上の国境線として固定化する一方、アフガニスタン国内においてはパシュトゥーン民族主義者たちによる「パシュトゥーニスタン」運動の最大の攻撃目標ともなった。

出所:鈴木均「アフガニスタン国家の特質と対周辺国関係について」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_01.pdf

アフガニスタンがしばしば,パキスタンとの関係悪化と経済的危機を賭してまで打ち出すパシュトゥーニスターン問題は,アフガニスタンの政治構造においてどのような意味を持つのであろうか.パシュトゥーン系部族はデュアランド・ラインつまり国境を挟んで相互につながりをもっており通婚圏もつくっている.当然,パシュトゥーニスターン構想は双方のパシュトゥーン,特にアフガニスタン側のパシュトゥーンに訴えかけるものを持っている.アフガニスタンにおいてパシュトゥーンは最大かつ最も有力な集団であるばかりか,国軍の勇猛果敢な中核将兵を供給としていることで知られる.兵員を調達する場合,各部族長の意向を無視するとしばしば反乱が発生するなど中央集権化を求めた政府はしばしば困難な立場に陥った.部族的秩序が支配するこのパシュトゥーン社会の動向はアフガニスタン政府にとって決定的な意味を持ってきたのはそのためである.

出所:清水学アフガニスタンの「近代化」と国民統合一試論」『一橋論叢』第133巻第4号、2005年4月
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/15357

アフガニスタンのパシュトゥーン民族主義勢力は、伝統的にデュアランド・ラインを「国境」と認めていない。パキスタンの歴代政権は、そのような民族主義勢力に対処するために、民族主義を否定しイスラーム共同体(ウンマ)の団結を強調するアフガニスタンの特に最大構成民族であるパシュトゥーンを主体とするイスラーム主義勢力を支援してきていた。これは、カシュミール問題でインドと前面で対峙するパキスタンにとって、背後のアフガニスタンに親パキスタン政権を確保しようとする安全保障政策の一環である。

出所:柴田和重「パキスタンの「ターリバーン化」―アフガニスタン安定化への足枷―」鈴木均編『アフガニスタンの対周辺国関係―ターリバーン敗走から4年間の変容―』アジア経済研究所、2006年3月
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Report/pdf/2005_04_29_05.pdf