「近代的立ち位置」とカースト

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546

を読みました。読みながら、カーストについて思い出したものからメモをとっておきます。人の見方や意見を無意識に左右する言説空間の構造を指摘することは大事だと思います。

 ヒンドゥー教の階層的で不平等な構造については大方受け入れられてきた。しかし、アカデミックな言説の中で大方見逃されてきたのは、下位の人々に向けられてきたカジュアルな野蛮さと組織化された暴力である。ヒンドゥームスリム間の暴力と同じように、ヒンドゥーヒンドゥー間の暴力も考究される必要があるし、後者の方が長い歴史を持つことも知られなくてはならない。問われるべきは「内部の他者=下位カースト、に向けられる暴力が、どのようにして、外部の他者=ムスリム、へと向けられるようになったのか」ということである。

 ダレーシュワルは、「世俗的自我のカーストに対する独我論」という問題を提示する。ポストコロニアル・エリートのモダンであろうとする欲望は、リベラル・ヒューマニズムという進歩の物語の枠内のものであるというのだ。彼らの自己形成とは、個としての市民というアイデンティティを得るために、エスニシティ、言語、カーストその他の特徴を放棄することであるように見える。その一環として、彼らの世俗的カテゴリーを現実の社会に押しつけるために、エリートは英語を使用してきた。英語とは、一つの言語であるとともに、「モダニティを象徴する記号論的システム」でもあるのだ。英語によって構築されたこのモダンな主体は、カーストを地方語に覆われた私的な領域に限定されたものであるかのようにして、それに遠くからアプローチすることを可能にする。英語はカーストや「伝統的」慣行に関する「メタ言語」として機能してきたし、英語を専有する人々は、彼ら自身がカーストや宗教的特徴から自由な、主体的立場にあると主張してきた。公共圏は、世俗的なカテゴリーの下で、細々と構築されている。例えば、全国英字紙の「ムスリム」という言葉に対する検閲と、「ザ・マイノリティ・グループ」という頑迷悪質な婉曲的言い回しを見よ。

これに付随するのは、公的な言説の上で、彼/彼女がどのようなカテゴリーにも特徴づけられていないということによって、彼/彼女はカーストを実践していない、という上位カーストの世俗的自我による主張だ。その一方で、公共圏でカーストの言葉を使用するダリットその他の者はカースト主義者とされるのである。

出所:Dilip M. Menon, 'An Inner Violence: Why Communalism in India is about Caste', in T.N. Srinivasan, ed. The Future of Secularism, New Delhi, 2007. pp. 61-62.(拙訳。本文中の注番号は省きました)。