ガーンディーについてメモ

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20090928/p1
を読んで、敬して遠ざけていたガーンディーについて勉強不足を改めて感じたので、とりかかりとしてメモします。

  • 入門書

Bhikhu Parekh, Gandhi: A Very Short Introduction, Oxford, 2001. (初版は1997年、岩波書店から<一冊でわかる>と改題されて翻訳出版されているシリーズ)

  • 最近の本

David Hardiman, Gandhi in His Time and Ours, Delhi, 2003. (『サバルタンスタディーズ』創立メンバーによるガーンディー評伝)

  • ガーンディー著作集データベース(英語)

http://www.gandhiserve.org/cwmg/cwmg.html



 最後に、きっかけを下さったブログ記事に触発されて、少し調べて見た所からメモしておきたいと思います。翻訳は全部拙訳で、原文の注は省いてあります。

  • ガーンディーと非暴力について抜粋

ガーンディーの母はプラナーミー派に属していた。それは、ヒンドゥームスリムの信仰を合わせ、ヴィシュヌ派の聖典クルアーンを等しく重視し、宗教的調和を説く宗派であった。
【中略】
彼の父の友人たちの中には、厳格な不殺生と修養の教えを説くジャイナ教徒が沢山いた。

出所:Bhikhu Parekh, Gandhi: A Very Short Introduction, Oxford, 2001. p. 1.

不殺生を第一の誓戒とするジャイナ教は特に重要であり、ガーンディーの非暴力は、若い頃にジャイナ教と接したことを基礎とすると論じられることが多い。
【中略】
ジャイナ教徒のバニヤーは、虫を傷つけないよう細心の注意を払う一方で、ビジネスでは仲間である人間を抜け目なく無慈悲に取り扱う。マールワーリーの諺はそれを端的に表現している。

ああ、バニヤーよ。あなたのすることを誰も知らない。[虫がいないことを確認するために]水を飲むときには必ず濾過して検査するのに、クライアントの血は遠慮なく飲むのだ。

対照的に、ガーンディーの非暴力は、仲間である人間に対する愛他主義と同情に根ざしたものである。

出所:David Hardiman, Gandhi in His Time and Ours, Delhi, 2003. pp. 57-58.

  • ガーンディーの人間観・社会観・西洋観の一端

ガーンディーの不可分な人類という概念は、抑圧と収奪のシステムに対する批判の基礎を形成している。南アフリカの白人、インドや他地域の植民地政府、全部の社会の富裕者や有力者のような支配集団は、彼らの犠牲者を貶め、収奪することによって、彼らも同様に傷つくということはないと信じている。しかし現実には、そうすることによって、犠牲者と同様に、場合によってはそれ以上に、彼ら自身を貶め、その人間性を奪われているのだ。
【中略】
人類は不可分であるので、抑圧のシステムに勝利者はなく、単に敗北者だけが存在する。そのために、そのシステムを終わらせることが全員の利益となる。

出所:Bhikhu Parekh, Gandhi: A Very Short Introduction, Oxford, 2001. p. 53.

『真の独立への道』を東洋的観点からの西洋/ヨーロッパへの攻撃として読む人々もいる。しかしながら、ガーンディーはそのパンフレットでしばしば東洋/西洋の二分法で語っているが、それが問題の核心であったわけではない。彼にとっての根本的問題というのは、西洋で支配的な文明の価値への無批判な同化であった。これは1910年に出版された英訳版の序文から明白である。その中で、彼は、イギリスによる支配と多くのインド・ナショナリズムの嫌いな所は、二つとも「近代的方法による暴力」のような「近代文明の悪」を支持している所だと言明する。もしもイギリスが古い価値を再び主張することができるのであれば、彼らは対等なパートナーとしてインドに残留することを歓迎されるであろう。彼は西洋から学習するべきことが沢山あることを決して否定しようとはしなかった。

出所:David Hardiman, Gandhi in His Time and Ours, Delhi, 2003. pp. 70-71.

  • ガーンディーの死の一側面

1947年8月15日にインドが独立したとき、ガーンディーはデリーの祝典に参列せず、国旗も振らず、一言のメッセージを送ることさえしなかった。彼は数百マイル離れた場所で暴力と格闘している途中で、祝福する理由を見出さなかった。独立直後、カルカッタが大規模な暴力の劇場となったとき、ガーンディーはその都市に急行した。
【中略】
カルカッタから、ガーンディーは暴動が吹き荒れるデリーへと急行した。彼はムスリムの所を訪問し、脅えた住人を安心させた。同様に、彼は財産を全部失ったパキスタンからの難民で満杯のキャンプを訪問した。一部の人は愛する者を失い、全部の人がムスリムに対する憎悪で一杯だった。一人で護衛もなく、彼は彼らを慰問して、「悪に悪を返しても何も得られない」と説いて、寛大さを示すよう懇願した。
【中略】
沢山の激昂したヒンドゥーが彼の政治的ナイーヴさやムスリムへの共感を非難したが、大部分の人々は、彼が原則に忠実なだけであり、インドの安定と名誉だけを考えていることを承認した。
【中略】
教育を受けた明晰なモダニストであり、同時に戦闘的なヒンドゥー教徒でもあり、イデオロギー的にガーンディーが拒絶した大体のものを支持した者が、お辞儀をした後ガーンディーを殺害した。
【中略】
1948年1月30日の彼の暗殺は、カタルシス的効果を持った。それは、ヒンドゥー過激派の信用を失墜させ、穏健派のヒンドゥーを洗練させ、少数派を安心させ、嘆く国民を大難の瀬戸際から引き戻した。

出所:Bhikhu Parekh, Gandhi: A Very Short Introduction, Oxford, 2001. pp. 29-32.

何が得られたのだろうか。歴史家スミット・サルカールの評価は辛い。

精力的に活動し、ヒロイックであったが、1946-7年のガーンディーの方法は、ローカルで、しばしば短期のインパクトしか持たなかった、孤立的個人的な奮闘以上のものではなかった。*1

ダールトンはこれに反論する。
【中略】
憎悪は悲嘆に置き換えられ、その声はデリーの大規模な葬送の列から上がった。集合的罪責感が現れ、憎悪は弱まった。この点で、ガーンディーの死は、彼が人生最後の数カ月で追求した目標を、長い時間をかけて達成した。ギャーネーンドラ・パーンデーによれば、ガーンディーの暗殺によって、当局は宗派主義者に対して以前よりとても厳しい態度を採用することになった。
【中略】
デリー/インドをヒンドゥーとシクに限定された領域にしようという要求はもはや聞かれなくなった。「ムスリム」=「難民」/「外来人」とは見なされなくなった。
【中略】
最終的に、デリーのムスリムは安心し、以前の生活へと戻ることができた。*2デリーのカージー・ジャリール・アッバーシーは、後に涙を浮かべて語った。

ガーンディー翁は、ムスリムがインドに住み続けることを可能にしてくれました。

出所:David Hardiman, Gandhi in His Time and Ours, Delhi, 2003. pp. 190-191.

ゴードセーがRSSの支持者であり、サーヴァルカルの追従者であったので、ガーンディー暗殺の結果、ヒンドゥーナショナリズムが深刻な不評に陥ったのは当たり前のことであった。
【中略】
ガーンディーの死後40年以上が過ぎ、1990年代に至ってやっと、ヒンドゥー教右派はガーンディー暗殺のスティグマを脱ぎ捨てることができた。*3

出所:Barbara D. Metcalf and Thomas R. Metcalf, A Concise History of Modern India, Second Edition, Cambridge, 2006. p. 229.

*1:サルカールは、「マハートマーの最良の時間」という題名をつけた同じ節の中で、「ガーンディーのユニークな人格と真正な偉大さが最も顕わになったのは、彼の人生の最後の数カ月であった」、「時々は、ガーンディーの存在が本当に奇跡を起こしたように見えた」とも述べています(Sumit Sarkar, Modern India: 1885-1947, New Delhi, 1983. pp. 437-438.)。

*2:全部が元に戻ったわけではありません。パーンデーは、1947年のデリーの総人口は大体95万人でしたが、分離独立で33万人のムスリムがデリーを離れると同時に、50万人近辺の非ムスリム難民が到着したと述べ、注でデリーの総人口中のムスリムの割合は、1941年から1951年の間に、33.22%から5.71%に減ったとする研究を紹介しています。また、ムスリムの「ゲットー化」の進行にも言及しています(Gyanendra Pandey, Remembering Partition: Violence, Nationalism and History in India, Cambridge, 2001. pp. 122 and n., 146.) 。

*3:一方で、ヒンドゥー教右派を核とする連立政権が、歴史教科書からガーンディー暗殺に係る記述を削除して問題となったこともメモしておきます(インドの歴史教科書問題については、粟屋利江「インドにおける歴史教科書論争をめぐって」『歴史と地理』第574号、2004年5月、内藤雅雄「インドにおける歴史研究と歴史教育インド人民党支配下での歴史教科書問題」『専修史学』第37号、2004年11月、があります)。