コミュナル暴動とセキュラリズム批判についてメモ追加

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20091012#1255322225
http://d.hatena.ne.jp/sc_skipjack/20091012/p1
http://d.hatena.ne.jp/sc_skipjack/20091014/p1




 ナンディーの議論についての批判として、タンバイアについてメモしておきます。

 タンバイアもナンディーのヒンドゥーナショナリスト批判に言及しますが、なおかつナンディーの議論については批判します。

 タンバイアは、ナンディーの理性を道具にする扇動者と大衆の分離、扇動者と支配的官僚的エリートの道具としての理性を一致させる提案のもっともらしさを疑問視します。タンバイアによれば、現在(執筆当時)のヒンドゥーナショナリスト・リーダーはナンディーの性格付けに一層良く合致しますが、RSS初期リーダーやカーリスターン分離独立運動のリーダーはそうでないとされます。

上に引用したヒンドゥーナショナリスト(と他のエスナショナリスト)のイデオローグは、「西洋化した」ミドルクラスと統治エリートを西洋理念の物真似、ヒンドゥーの文化的ルーツから遠くなった人として執拗声高に批判した。私にとったら、ナンディーの論文の弱点の1つは、リヴァイヴァリズムと宗教文化的革新に向いたこれらのリーダーの熱烈なコミットメントの経験的な基礎と動機的な基礎、どのようにこの行動のプログラムが彼らの「伝統的」宗教バックグラウンドとモダン・グローバル・プロセスにさらされたことから出現したのかということについて、彼が整合的な説明に失敗していることだ*1

 タンバイアはナンディーの「信仰としての宗教」と「イデオロギーとしての宗教」の区別についても批判します。

私にとったら死活問題は、信仰としての宗教を実行するとされる大方非モダンなインド人の大衆が、大規模なヒンドゥーナショナリストのキャンペーン、ラリー、プロセッション、マス・アクションにどのように引き込まれ押し流されるのかだ。
【中略】
大衆民主政治のモダンなコンテクスト、マス・コミュニケーション、メディア、大衆動員用テクノロジーの広い使用からしたら、信仰としての宗教とイデオロギーとしての宗教の純然たる分離を仮定することは、出発点として解明的でない。むしろ、集合的アイデンティティと同時に、希望の期待、アイデンティティ形成、不確定の未来についての不安/恐怖にアッピールするマスメディア・プロパガンディスト・メッセージの供給する刺激による、毎日の共存から動員された暴力への転換の疑問の無い容易さを、実地調査し詳細に描写する必要がある*2

同様の問題意識を表明するブラスについてもメモしておきます。

全部の点から、インドの現在と未来に本当に大切なのは、無際限に継続しうる責任転嫁のトラップと身の毛もよだつ暴力の重大さを最大化や最小化する相補的トラップから逃避することだ。短くしたら、レスポンシビリティを固定させ、欺瞞、レトリック、神秘化、不分明さ、不確定さの雲を突破して、発見できることを発見することが必要だ。真実全部は決して知られることは無いということを十分に知ってなお、有名な人物・グループ・組織・政治リーダー・メディア・原因を捜し求めるアカデミック・慰めを求めるパトリオットの明白な行動と無行動を発見し、公にし、本にすることができる*3

*1:Stanley J. Tambiah, ''The Crisis of Secularism in India'', in R. Bhargava, ed. Secularism and its Critics, New Delhi, 1998. p. 443.

*2:Stanley J. Tambiah, ''The Crisis of Secularism in India'', in R. Bhargava, ed. Secularism and its Critics, New Delhi, 1998. pp. 443-444.

*3:Paul R. Brass, The Production of Hindu-Muslim Violence in Contemporary India, New Delhi, 2003. pp. 391-392.